須田昌広 著


| 七十歳を過ぎた私が国定忠治を書いて出版する。しかも青森県十和田市に住んでいるので不思議に思う人もいるだろうが不思議でもないし売名でもない。郷里が忠治と同じだからである、お園自慢や自叙伝らしきものを書いていると、国定忠治が必ず浮かんでくる。忠治を除いて文にならないし話しにも絵にもならない。
歌にも小説にも劇作家にも手頃な売りものである、小説本にすれは売れるし劇作家が上演すれば大入り満員の盛況である、TVも視聴率は多いが、何れも真実に欠けている点があまりにも多過ぎる。
忠治は人を斬ったこともなけれは斬られた事もない、大戸の関所で際の刑に処せられたことになっているが、野菜は高崎近傍の烏川の川原である、磔にされ規定のとおり三日三晩の晒首になったのは史実であるが、嘉永三年に死亡したことになっており養寿寺の墓石に刻んであるが、忠治は四十一歳で文化四年(一八〇七)の生まれで弘化四年(一八四七)十二月未に(十二月二十二日)烏川原に磔になりその夜の内に晒首がなくなった。それが大正十三年に菩提寺の養寿寺の屋根裏から・・・・ 昭和44年11月 |

